リベラルアーツカフェ120
「良い子」って楽ちん?
リベラルアーツカフェVol.120レポート
今回のカフェは哲学対話企画です。あすなろの大音さんと共にダブルファシリテータを務めました。宇都宮市内の対面会場と全国からの参加者をリモートで繋ぐハイブリッドでの対話に臨みました。小学生~シニア世代まで総勢20名弱の参加をいただき、対話がどのように成立するのか、半ばドキドキしながらのスタートとなります。
はじめに哲学対話のルールを説明、次の自己紹介は人数が多いので、各自「名前」と「好きな花」を紹介するといった感じで、少しずつ和やかな雰囲気となっていきます。その後一旦、対面組とリモート組に分かれて20分程度、それぞれの中で「良い子」についての対話を進めます。こうすることで対話の熱が一気に上がり始めました。大音さんが対面組、私・藤平がリモート組をそれぞれ担当できるのも、ダブルファシリテータの強みです。
私が担当したリモート組で出てきた意見の一部です。
「適性な良い子」「過剰な良い子」が居るような気がする。
「問題解決力が高い子」が良い子では?
「親や大人の期待に応えられる子」が良い子だと思う。誰にとっての良い子なのか?
大人も含めて「良い子」が存在すると思う。それは「便利な人」の場合もある。
「成績が良い子」
「評価する側の良い子」と「評価される側の良い子」
「子どもの思う良い子」と「大人の思う良い子」
自分は良い子じゃなかったかも?
「良い子ブリッ子」という言葉
最近の子はどうか?
「頑張れる子」が良い子かと。逆なのは「ゴールが設定されていない子」?
全体的に悪い子は減っていると思う。
大人の期待には応えているが、自分を持っていない?
誰から見ての子どもなのか?
良い子は怖い。
正義とは何か?
「良い子」の基準が1人の中にいくつも存在しそうだということや、最後の方に正義感の話も出てきていることから、もしかしたら「正義」の位置付けが良い子の基準に影響しているのかも知れない、といったことが読み取れます。
大音さんが担当した対面組の主な意見です。
人にやさしくできる子・立場に合わせて意見が言える子
勉強ができる子
良い子というワードに良いイメージが無い子もいる。
良い子をやっているのが「そんなに嫌ではない子」と「嫌だよという子」
大人の期待に応えるのが「嬉しいと思う子」と「圧力と捉える子」
自分のやりたいことを達成するために良い子でいることもある。
対面組は子ども本人やその家族が大半でしたので、リモート組とはまた違った、当事者感が強い意見が見受けられたのも、面白い現象ですね。ここで、「ゴールが設定できる子」についての話題が展開されました。
ゴールが設定できる子=安心できる子?
「ゴールが設定できる子」でイメージするのは、例えば藤井聡太さんなどを思い浮かべるが、イコール「良い子」といって良いだろうか?
ゴールの設定は誰がする? 「ゴールを自分で設定できる子」が良い子なのか、「大人から与えられたゴールを達成できる子」が良い子なのか?
藤井棋士や野球の大谷選手などは、自分の思い(=ルール)を完遂することを、周りの環境が許した結果かもしれない。
ある意味、この2人(藤井・大谷両氏)は「自分を持つ」ことやそれを守っていくことを許されたのかも知れない。
「良い子」という言葉の対極にある「悪い子」について、"Eテレで「悪い子あつまれ」という番組がありますが、見ていますか? 悪い子はおもしろい子なのかな?"という問いが投げかけられます。
「悪い子」って何だろう?
良い子と悪い子の線引きをしない人も居る。この違いは何だろう?
悪い子の定義で「正義に対する敵」という設定をしがちな気がする。バイキンマンがいるからアンパンマンは活躍出来ている。悪の設定が正義の定義づけになっている。
「将来の戦略が立てられない子」も悪い子に入るかも知れない。先の大谷選手の例では、二刀流を受け入れてくれそうな球団を戦略的に選んでいる、とも云える。
そもそも、アンパンマンは正義なのか? バイキンマンは悪なのか?
バイキンマンのやっていることは、度が過ぎるいたずらなのか、めっちゃ悪いことなのか?
バイキンマンのやっていることは利己的、アンパンマンがやっていることは利他的、にそれぞれ見えるが、どちらが正義かというのは別の観点が必要では?
ここから"(少し過激になるけど)「ロシアの志願兵と国外脱出する兵士、どちらが正義か?」といった所に行き着くと思うが、どこを基準に正義を考えるかはすごく重要。" という話が投下され、正義に関する様々な意見が出てきます。
脱出兵の方が世界的には正義と捉えられるかも。ロシアにとってはバイキンマン的な行動だが、世界的にはロシアの情報を拡散する役目も果たしている点で評価されている?
アンパンマンの真のヒーローは、実はバイキンマンなのか?
バイキンマンは、カバのTシャツを濡らすといったいたずらレベルから、カビルンルンを繁殖させるといったバイオテロ的行為まで、幅広く行う。
一方、アンパンマンも自分の顔を分け与えるといったNPO的行動をするが、もしそこにばい菌が付いていたら誰が責任を取るのか?という見方も出来るかも。
話し合いで解決する道を探る意見も出てきます。
アンパンマンがバイキンマンを殴る行為は "正義" のための行為と言い切れるのかな? 話し合いという選択肢は取れないのか?
良い子にするための、例えば、学校での体罰とか、家庭でのしつけなどは、「殴る正義」と共通点がありそうな気がする。
たしかに、アンパンマンのストーリーには「話し合い」は出てこないかも。
でも、アニメでは「待つんだ、バイキンマン!」「やめるんだ、バイキンマン!」と説得を試みてから、手を出している(笑)。
実際のところ、話し合いで解決するアンパンマンやウルトラマン、仮面ライダーなどを、みんな見たいと思うかどうか?
善と悪が戦うシーンに需要があるならば、実は私たちは本当に話し合いだけで解決したいと思っているのだろうか?
現実では、「分かり合えない」ことを前提に物事を解決していることが多いのでは? だから"敵"というものを作ることで分かりやすくしているだと思う。
アンパンマンの世界では、話し合いができないから手を出す。
そして、話し合いをしても解決できないこともある。
さらに違った視点での話題が投下されます。"とある地域の人権標語を見てゾッとした覚えがある。大人の正義に則った標語を子どもから募集し、大人が評価したり賞を付けたりする、ある意味、子どもを無視した行為ともいえる。"という話から「正義の見方」の話に移ります。
悪は必ず負ける、ということが実際にはめったに起きないから、悪が負けるというストーリーが欲しくなるな。
マジョリティになっているとき、良い子になりやすく、マイノリティになってえいるとき、悪い子になりやすいのは?
一定以上の年代層は「勧善懲悪」のドラマなどを見てきている世代。ある意味刷り込まれている部分もある。
子どもの頃は「これは良い」「これは悪い」といった教育が比較的されているが、実社会では必ずしもそうではない。学校から社会に出る段階の接続がうまく行っていない気がする。だからこそ、学校教育の中で対話によって善悪の確認作業をしていく経験が必要。
「悪い子は面白い子?」という意見があったが、ドラえもんが、出木杉君やしずかちゃんだけ出てくるアニメだったら、みんな見たいかな?と思った。
昔、小学生の頃、道路に飛び出した同級生を注意のためにげんこつしたら、いじめっ子のレッテルを張られた経験がある。社会に出る前での学校教育の中でも、良かれと思ったやったことが悪者になってしまうといった、善悪が逆転してしまうケースもあると感じた。
ここで再び、良い子についての疑問に戻ります。"学生時代は「良い子=勉強ができる子」という概念が強い時期もあったり、大人になって自分の子どもに勉強ができることを望むことも多かったりすることもあると思うが、実際、参加者の皆さん、自分の子どもに何を望むか?"(以下、大人視点・子視点それぞれ意見が出ました)
[大人]「孫の顔が見たい」と思っているが、今の時代は言いにくいと感じる。
[子] 悪口を言わない・やさしい・暴力を振るわない
[子] 悪いことをして怒られている友達を見て「あいつ、終わったな」という、信用のゲージが1つ下がったような感覚。
[子] 先生の要求に対して、良かれと思ってそれを超えるアクションを取った際に、誤解されて悪者になってしまうケースがあった。
[大人] 親は勉強が出来ることを要求するが、それは将来の選択肢を広げておく、といったセーフティーネット的な考え方でもある。
[大人] 自分の中に「良い子=勉強ができる子」という視点が全くなかったので、話を聞いていて面白いと思った。「勉強ができるが、素行が悪い子」と「勉強はできないけど、やさしくて先生の言うことをよく聞く子」は、どちらが良い子?
[大人] 自分の娘から「勉強はできるけど性格が凄く悪い子が多くて困っている」という話を聞いている。
そして、"はじめの方で「安心できる子」という話があったが、安心できる子って何だろう?"という問いが出ます。
自分がやりたいことも、やりたくないことも、ちゃんと言える子、伝えられる子。
ちゃんと言える子は、親にとっても楽だと思う。
今回のテーマ「良い子って楽ちん?」はとても良いテーマだと思う。親にとって楽ということはある意味、子育てにかかるコストをかけないということでもあると思う。
自分の子が「言えない子」であったとしても、子本人は考えていることも多々あると信じて、子ども自身の安心を優先に一歩引いて待つこともある。親が子を「どう信じているか?」が大切だと思う。
「親から見た良い子」「先生から見た良い子」など、評価する側によって良い子の視点や定義にズレがあると思う。成績を求める親と勉強したくない子の場合、子からその思いを出させるプロセスなどは必要。
子どもから想いを引き出させるために、「子ども側に付く」という発想もありだと思う。
ここまで、「良い子」→「ゴールが設定できる子」→「悪い子」→「正義」→「話し合い」→「正義の見方」→「勉強ができる子」→「安心できる子」といった話題が展開されました。時間が来たので、最後に全員に一言ずつ振り返りをしていただきました。主な感想です。
良い子の観点は時代と共に変わっていく。100点満点の人間はいない。それぞれの人の良い点を見つけてあげることがポイントかも知れない。
皆さんの「良い子」像を聞けて良かった。
「良い子は楽ちんではない」ことをいつも考えていくべきだと思った。
アンパンマンも楽ちんではないんだろうなと思った。
親は子が生きやすくなるように・・・と願うが、子にとってはそうでないこともあるんだなと感じた。
対話に一生懸命取り組んだので、お腹が空きました(笑)。
やはり、自分のクラスに藤井君と大谷君が居たらイヤだろうな、と思いました(笑)。
最近は「見るからに悪い子」は減ったが、「分かりずらい形での悪い子」が増えてるなと感じた。
今、モヤモヤの状態なので、帰宅してゆっくり整理します。
最終的に何なのか分からなくなった(モヤモヤ状態)。
良い子と悪い子の境界が分からなくなった。
筆者個人としては、やはり今回のように多世代(小学生~シニア)での対話は、ポジティブにモヤモヤすることも多く、とても面白い時間だと感じました。そしてお腹も空きました。
今回、盛り上がったところで終了してしまったため、7月に続編を開催することになりました。本レポートをお読みいただき、興味を持たれましたら、ぜひご参加ください。
[文責:藤平 昌寿(リベラルアーツとちぎ 代表)]
リベラルアーツカフェVol.120(2023/4/29)開催のお知らせ
4月のファシリテータ:
大音 知子(おおと ともこ)さん
(マザーズガーデン~子どもワクワク教室「あすなろ」~代表)藤平 昌寿(ふじひら まさとし)さん
(リベラルアーツとちぎ代表・自治医科大学医学部客員研究員)
テーマ:「良い子」って楽ちん?
日時:2023年4月29日(土) 10:00-12:00
開催場所:対面・オンラインのハイブリッド開催
対面・・・もこ塾(宇都宮市鶴田)
オンライン・・・zoom利用
参加費:無料
定員:計15名
お申込み
ご質問等は info@la-tochigi.net でも受け付けます。
今回も対面とオンラインのハイブリッド開催です。カフェ115にもご登場いただいた大音知子さんとわたしく藤平のダブルファシリテータによる対話企画です。
今回は「良い子」について考えてみようと思います。良い子であることは色々な場面で求められたり、あるいは、子ども自ら良い子でいることを選択することもあります。例えばですが、大人が求める"良い子"と、子どもが思う"良い子"は同じものでしょうか? そんなきっかけから、参加者それぞれの"良い子"像を伺いながら、もしかしたら発生しているかもしれない、親-子間や、先生-生徒間、自分-社会間などのギャップやすれ違いなどに気づいたりできると、得るものもあるかも知れないなぁ・・・という企画です。
今回も哲学対話形式で行いますが、未経験の方でももちろん大丈夫です。老若男女、色々な立場の方々が参加されるとより面白いので、お子様ももちろん参加可能です。もちろん、オンラインで全国からも参加可能です。ぜひご参加ください。
from: 藤平 昌寿(リベラルアーツとちぎ代表)