リベラルアーツカフェ149
“命の所有者”は誰なのか?
“命の所有者”は誰なのか?
自己紹介の後、ファシリテータの大音さんから今回のテーマの主旨をお話しいただき、対話が始まりました。
主な意見や流れをメモしていきます。
▼冒頭の主な問いや意見
ペットの命は飼い主が預かっている?
刑務所の犯罪者は税金で命を繋いでいる形だが、どう思う?
「所有」と「使う権利」が分離しているのが命では?
「心」や「思考」が無くなる瞬間が死だと思う。
「心臓が動いている状態」が生だとすると、自分よりも大きい存在(国やウイルスなど)が命を握っている?
自分は延命措置を希望しない。命は自分のもの。
生死を彷徨った際に、失いそうな命を突き返されたような感覚だった。自身のコントロール下ではない気がする。
「相手があっての命」という考え方もある。
ニュージーランドのマウリ族には土地などを所有するという考えが無かったことから、白人との条約で土地を奪われた、という事例があり、「所有」という概念の考え方・捉え方なども人によって違いがあるかも。
所有権を手放すことについては、慎重になるべき。
▼自由と社会性の話へ
国や他人が命のコントロールの一部を担っているというのは、そこにある種の「社会性」が横たわっていると思う。
人間は自由なのか? 社会で生きる=自由を犠牲にしている? 自由なのは自身の「思考」だけかも。
自殺は自ら思考する自由を断つこと、死刑は他人の思考する自由を奪うこと?
将来の子どものものでもあると考えられる。親の生活環境のストレスや耐性(レジリエンス)が、子どもに遺伝するらしい。
社会性が薄れるのは、親や祖父母などの世代も近しいことがあると思われる。それを改善するには心理的安全性が必要?
思考とは「孤独な、自分との、対話」。人は野生動物に比して自分勝手で孤独。過去・現在・未来を明確に理解して考えれると、他者との隔たりが、高い壁になる?
生まれた時に前世の魂があるような話を聞いたことがある。肉体と魂は別なのか?
自身の命を自らが『自由』に扱えるなら(所有や権利?)、他者が横やりを入れることへの是非を考えたい。命の所有は専属? 分割出来る? 時と場合で変わる?
▼そもそも自分の命は「所有」するもの? それとも違うイメージ?
命は「宿す」もの、「使わせてもらう」ものだと思う。
大きな命を「シェア」するものだと思う。
「自分」=「命」
自分の命は自分のものだが、好き勝手に捨てたりしてよいものではない。
悩んでる。社会保険料と命の平等とのバランスを考えると・・・
思考がある限りは自分の命。思考できなくなることが怖い。
死ぬのは怖い。自分が生きていることが集団において最善かどうかは、考えてしまう。
死の恐怖を感じられるということは、生きるエネルギーが十分あるから?
・・・などなど、他にも様々な思考や意見が飛び交い、一部の皆さんは時間延長して対話を続けました。
結論を出す集まりではないですし、ある程度参加者の皆さんの考えが深まったように思えたところで閉会しました。
なかなか歯ごたえのあるテーマでしたが、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
[文責:藤平 昌寿(リベラルアーツとちぎ 代表)]
9月のゲスト:大音 知子(おおと ともこ)さん
(マザーズガーデン~子どもワクワク教室「あすなろ」~代表)
テーマ:“命の所有者”は誰なのか?
日時:2025年9月19日(金) 20:00-21:30
開催場所:オンライン・・・zoom利用
参加費:無料
定員:15名
お申込み:https://la-cafe149.peatix.com または 表示のフォームから
ご質問等は info@la-tochigi.net でも受け付けます。
今回はカフェ141以来の大音さんゲスト回です。
前回は対話メインではありませんでしたが、今回は対話回です。大音さん持ち込みの「“命の所有者”は誰なのか?」がテーマ。大音さんご自身も前回以降、さまざまなご経験を積まれ、ブラッシュアップしている中での今回のテーマ。私も楽しみなところです。
もちろん、哲学対話が初めての方や知らない方でも大歓迎です。皆さまのご参加をお待ちしております。
from: 藤平 昌寿(リベラルアーツとちぎ代表)